• **面矢:**5人の発表者ともに非常に面白い発表でしたが、あまりにも領域が広がりすぎていて、この中で何か1つの結論というのはほぼ絶望的と私は思っております。ですから、会場のかたも、それからオンラインの方も、鋭い突っ込みを入れていただいて、議論を活発にしていきたいと思います。最初は、登壇者の方同士の掛け合いをやりたいのですが、どなたかからどなたかに質問があれば、どうでしょうか。
  • **石川:**私から質問させていただきます。益岡先生のご発表ですけれども、人間と道具——今回の場合、ソフトウェアということでしたけれども、その関係性というのが、私の立場ですと——栄久庵さんの本を読んだ受け売りみたいな感じですけれど——、基本的に人間側に言えることなんです。なので、コンピューターとの関係というのは、例えば、こうあってほしいという願望が、そのままストレトートに叶うような、そういったコンピューターとの関係を理想とするならば、コンピューターの存在を感じないような方向に向かって——ストレスフリーなものに向かっていこうとするものなのか、それとも、一応、栄久庵さん側で考えると、いやそうではなくて、やはり楽しみだとか、願望だとか、そういったものをむしろちゃんと反応してくれる、インタラクションがある世界を望んでいるっていう考え方なのか、どっちに行くのか。いかがでしょうか。
  • **益岡:**情報デザインという分野が、高校の授業としていま必修化しておりまして、その関係もありまして、どういうことを教えているんだろう、みたいなことを、教科書を読んだりNHKの番組を見たり、確認することがあるんですけれども、よく言われるのは、情報デザインというのは情報をわかりやすく提示することです、というふうなこと——まあ説明を、NHKとかでも言われて。いや、それはちょっと違うんじゃないかと。私はインターフェース屋さんなので、お客さんに対して、やはり、例えばユーザビリティ的なものという話ですかね、なんか、間違って操作しないようにする工夫をしますとは言いますけれども、それはあくまでも目標の一部であって、最終的には、有り体に言ってしまえば、商品性を高める、サービスとしての質を高める、ということがやはり目標であって、ただ単に、例えばPCを早く分かりやすく使えますよ、ではなくて、そのPCを使って何かあなたは楽しいことができるんですよ、ということは担保したいというふうに、私なんかは思うし、今でも私がお世話になっている事務所のかたとかは、そういうお考えで、仕事をされているだろうというふうに思います。
  • **石川:**ありがとうございます。今の答えは私にとってはすごくありがたい答えで、やはりコンピューターがあるから、こちらもこういうことを考えようというふうな、ワクワクするような世界が期待できるんだっていう、そういうお話だったと思います。そういうふうに、あくまでも、コンピューターとか機械の側が勝手に進歩を進めるような、そういったことは起こらないです。AIが人間の能力を超えてこうなっちゃったら怖い、とかっていうことをたまにおっしゃるかたがいますけれど、道具論とか、栄久庵の観点で考えると、絶対に起きないですよね。なぜかというと、インタラクションのなかでしか発達しないからですね。なので、そういう、我々のワクワク感だとか、そういったものが、あくまでも状況をコントロールしているんだという、その考えとして、いま私は受け止めたので、とても腑に落ちました。  こういう話をすると、いちばん最後の発表をしていただいた越後さんの、非人間的なものだという——非人間性ということが出てきて、「痕跡」というお話もございましたけれども、ああいったこととの関係性を、私はじつは理解できなかったんですけれども。それから、現象が客観的だという意見にも、ちょっと私は異論があって、あくまでもその現象を観察しているのは人間側ですので、人間は自分の経験や記憶や思い出を跳び越えて物を観察することは絶対にできないので、客観的に痕跡を観察するということが、果たしてできるのかという、そこがじつは引っかかっていたのです。その点については、どのようにお考えですか?
  • **越後:**発表のなかでも、ちょっと出させていただいたのですけれども、人類学者のティム・インゴルドの引用を幾つか僕もしたわけですけれど、彼は「共に」「共に連れ立つ」とかといった言い方をしているんです。まあだから、それはもう、こういうものであるという固定されたものではなくて、常に揺れ動くと。で、彼が言っているのは、凧——お正月に動かす凧——さっき僕はヨットの事例で説明をしたわけですけれども、要は風によって向きを変えていく、それをこちら側も当然操作をしながら一緒に操作していくという。それって、必ず観察においてもあって、客観性というのは、必ず一面的なものでは僕はないと思っていて、常に変わり続けている。だから、本当、本来ではこういう議論を積み重ねていくためには、これってこうだよねって、ひとつ定義をしていくことによって積み上がりがいくと思うのですけれども、同時にこれが、僕は非常にそのなかでも重要だと思っているんですけれども、常に何かに対応して変わっていくことすらも認めるべきなんじゃないかと、自分のなかでは思いながら研究をしているし、学生にもそうあるべきだと。
  • **石川:**よくわかりました。そういった事柄を観察して、フィードバックというかですね、それを一応、客観性というか、観察に基づいたものだといって一回キャッチしてっていうことだと。良くわかりました。  あと、私は先ほど面矢先生が、今回のシンポジウムは一貫性があまりないというお話だったんですけれども、逆で、今回はやはり人間主義というかですね、これを言うと越後さんのおっしゃっていることと矛盾してしまいそうで、ちょっと怖いのですけれども、私は、やっぱり工業化社会を経て、小林先生がポスト・モダンの時代というふうにおっしゃってくださいましたけれども、あくまでも人間主体で、人間の素朴な感覚だとか、平易な感覚だとか——これは益岡先生の話にもありましたけれども——私たちの感覚主体で考えるようになってきたというお話を今回いただいたと思っています。  ブリコラージュの話もそうだったと思うのですよね。専門的な知識ではなくて、本当に素朴な感覚で、あ、これ便利そうだな、とか、こういうふうに使ったら素敵になるじゃないかとか、そういう人間主体でものづくりが行われる時、プロフェッショナルな知識とかを介さなくても充分豊かな文化がつくれるぞ、クリエイティブができるぞっていうことを、今回、この5名のかたがたは同様に述べてくださったような受け止め方を私はしているので、とてもまとまりがある。それが決して単調ではなくて、いろいろな方向に向けてくれたので、とても豊かな人間性の話を伺うことができたなというふうに受け止めています。
  • **面矢:**そうですね、僕は最初のテーマ説明の時に、道具をこう定義するというふうに言いましたよね。artifactだ、人工物である、と。しかも、もともとはartifactというのは、触れる、形のはっきりしたものであったと。だけど、それだけだとどうも議論が進まないというか、昔の議論になってしまって。それで、そのartifactの捉え方を、「tangible=触れるもの」でないところまで広げると、かなりのところの話がカバーできるなと。道具の定義を変えたほうがいいんじゃないかなと思ったりしたんですよ。物ではなくて、人工物。人工物の「物」には、物質的な物(ブツ)もあるし、非物質的な物(モノ)もありますよね。システムとかAIとかみんな目に見えませんよね。でもそれがないともう我々の議論には乗らなくなってしまっているという。
  • **石川:**おっしゃる通りです。ただ、その手で触れるtangibleなものがかつては道具だと考えられていましたっていうのは非常に専門的な見方なんです。もっと平易に考えると、別に触れるものじゃなくたって道具だよね、というのがむしろ一般的で。その我々はデザインの世界の専門家だから、なんか機械設計とかtangibleじゃなきゃいけないとかっていう定義をしてしまうのですけれども、それこそがむしろ工業化社会の非常にモダニズム的なものの見方なんじゃないかということを今回気づきました。
  • **面矢:**小林先生のあのポスト・モダン理解というか、その考えでいったらば、僕なんかの考えはもう古いかもしれないですね。 植田さんは、この辺、どう考えて、どうしていったらいいと思いますか。
  • **植田:**いや、本当にちょっとどうしようかなと思って、今聞かせていただいていたのですが、やっぱり確かにハードなものをどうしても見てしまうんですが、文化って——今日ご紹介をさせていただいたんですが——必ずついてきますよね。博物館に行っても、説明を読まない限りそれがどういった道具かわからない。実は今日、例に豆洗いとか芋洗いを出させていただいたんですが、これ、多分日本の方だと、ああ、あれ豆洗いだとか、芋洗いだってパッと分かると思うんですが、最近、中国からの留学生が多くて、彼らにあれを見せると、なんだろう? あれフックじゃないか? と。それから、机の足ですとか。で、中国に行ってみると、そうやって使われている例が非常に多い。ということは結局、ハードなんですが、そこに説明をする、いやあるいはソフトウェアとしての説明というか、その成り立ち等々、そんなことを含めて、実はやっぱりモノだと。で、そのあたりをきちんと大切にしていかないと、僕の心配としては、本当にそのソフトが消えてしまって、名も無い……、いや、名だけはあるとか、物はある・名前もあるんだけど、実は存在理由がわからない、使い方もわからない……。なんか、そんな、実はガラクタばかりの世の中になってしまった。そんな危惧を実は抱いて。まあ、なので、そのソフトの部分をやはり活性化していく。やはりこの、先程来、インタラクティブというようなお話がございますが、やはり議論を活性化させていく、情報を流していく、そこのところは、これからの時代に非常にまた重要な要素になっていくと。
  • **越後:**情報化っていう面でちょっと思うのですけれども、僕自身が今教えているところは徳島県の神山町という、本当に徳島の山奥なんですね。で、まさにその神山でも、人類学者とか文化人の方がリサーチに来られるくらい、まさにブリコラージュ的なものがいっぱい山奥の村の中にあると。で、それというのはすごく僕も面白いなと思いつつ、僕も大好きだっていう話を先ほどさせていただいたんですけれども、同時に、今本当に目の前に直面している問題としてはもう、人口減少——村がなくなるっていった時に、もはやそういった我々がブリコラージュ的なものを発見できる箇所は、これから先の10年、20年、どんどんなくなっていくんじゃないかというところが一つ。  で、そこに対して、未来に対して僕がどんなふうに思っているかというと、同時に今の若い学生っていうのが、ものすごいデジタルの技術を習得していて、 ChatGPT然り、ものづくりに対して全く違った観点で生きているんだな、ということを感じています。先ほど植田先生もおっしゃったブリコラージュって、やっぱり、物もない、それを加工する道具もないというところからの知恵から生まれてきたものだと僕も理解しているのですけれども、今も、例えばうちの学生だったら、ちょっとしたものがなかったら、じゃあもう3Dプリンターで出しちゃおうかとか……。そういうことが全然できちゃうネイティブな世代が生まれてきた時に、じゃあ、これからどうして、どうなっていくんだろうかとか、ChatGPT が東大の入試をクリアしたっていう記事を読んじゃうと、まあ僕よりは賢いだろうなと。少なくとも記憶領域に関しては、いろんなことを知っている上でいうと、もはやもう ChatGPT は僕の道具ではなくて、僕が、どちらかというと道具に使われてるんじゃないかと思うくらい、関係性が変わってきてるので。そういったテクノロジーがコモディティ化する中で、やっぱりこの道具観というのは、今、非常に——特に AI が入ってきて——変わってくるんじゃないかなと。AI が入ってくるということと、日本の社会の中で人口減少、社会が変わっていく中で変わりつつあるだろうなということをすごく僕は今感じています。
  • **益岡:**ちょっと先ほどの議論に戻るのかもしれないですけれども、私の家の近所に北野神社っていう大きな神社があって、そこには牛の大きな置物があって、体が、例えば首が悪い人は首を触り、足が悪い人は足を触る。で、それを見に行くと、そこがちょっと剥げていて、まるでアート作品のような牛さんがおられるわけです。で、それを見て僕らは面白いと思うわけですね。その痕跡が面白い。ところが、例えばビッグデータで、例えば一般的なユーザーはこのスマートフォンを立ち上げると、このアプリを立ち上げますよ、というのは当然の傾向として出てくる。ある年齢、ある性別、ある国の地域の人にはこういう特性がある、というのは当然出てくる。ただそういう人に対して一番のサービスは、そういうアプリが自動的に機能として、選択肢として優先的に現れてきて、それを触ってくださいよという……。そうなると、なんか、私的には非常に世知辛いというんですかね、先ほどの牛の痕跡、牛に与えられている痕跡とは違う何かを、私は感じてしまうんですね。それがいいとか悪いとかではなくて、いやある意味、利便性だけを考えればそういうことは利用するべきだ、それが正しいことだ、というのはわかるんですけれども、いや、決してそうではないだろうという。私みたいなインターフェース屋が言うのも、ちょっとおかしな話なのかもしれないんですけれども、もっと、何がしかのエラーがあったっていいんじゃないかと。それが、何て言うんですか、使う人にとって楽しいことであれば、有利なことであれば、本来は問題がないはずだというふうに思うわけなんですね。で、どうしても私どもっていうのは、やっぱり考え方がアメリカから来たものなので、そこにある背景みたいなのを考えていくと、どちらかというと共通の概念があるということに驚く場合が多い。それで、ティム・インゴルドの本とかでも、結局、労働観というのが、なるほどこういうふうに考えるのか、みたいなところで、そこに対しては、なんというか、利用できるというのはちょっと語弊があるのかもしれないけれども、全世界的に活用できる何かの資源なんだろう、情報の資源なんだろうみたいな考え方になったりします。なので、そこの差異が重要なのかもしれないけれど、でも、多分その差異が一番面白いんですよね、本当のことを言うと。だけどそれが捨てられるっていうことが、もしかしたら我々の世界の問題なのかもしれないと、このように考えております。
  • **面矢:**ちょっと会場からもご発言お願いします。
  • **井口:**日本デザイン学会の井口壽乃と申します。私は UX デザインの進化やAI を全く否定する立場にはありません。一つだけ引っかかっているのが、例を挙げますと、私の母親が93歳なんですね。で、いわゆるお年寄り向きのガラケーを使っていたんです。それが壊れてしまったので、買いに行ったらもうガラケーは売ってないんですね。で、スマートフォン、お年寄り向きの一番簡単で文字が大きいものを購入して、こういうふうに使うんだよって言ったんですが、ボタンがタッチパネルなので、今まで1、2、3って押している。で、昔のガラケーはボタンタイプなので凹みますよね。押したという感覚が指に伝わってくるので、何の抵抗もなくできたのが全くできなくなってしまった。で、叩くだけだからっていう風に。で、電話をかけることはできるけれども、かかってきたものを受けることができないんですね。で、 AI ももちろんそうなんだけど、その技術の進歩、進化によって取り残されていく、あるいはそこに享受できない人たちっていうのは必ずいるわけですね。これについて、道具はどんどん進化していけば、これは経済のシステムの中では古いものはもう捨てられていくと……、売れないからってことなんですね。それについて、どういうふうに考えたらいいのか、お考えをお伺いします。
  • **益岡:**私も、実は今持っているスマホが初めてのスマホで、なぜかというと全く同じ理由で、私はタッチパネル反対主義者としてこの業界では知られておりまして。なぜかというと、触感がない。触感がないということは、入力しているか/入力されているかどうか、確認のしようがないじゃないかと。で、私がインターフェース屋になる一つのきっかけっていうのが、実は長年バンド活動をやっておりまして、いろんな楽器を使ったり、機材を使ったりする。で、それがだんだんデジタル化していくと、従来のやり方では通用しなくなっていく。例えば今までだとダイヤルを回すことで音を大きくするとか小さくするとかしていたのが、カーソルみたいなものを押して大きくするとか小さくするっていうのは、あまりにも考え方が違いすぎるだろうと。そういうのがずっと、なんていうんですかね、問題っていうのか、抵抗したいという気もありまして、それでインターフェース屋への道を進むんですけれども、じゃあ実際問題、例えば、アラン・ケイっていう人は、元々ジャズ・ミュージシャンを目指していた人なんですよね。やはりそのインターフェース屋さんの根本的な考え方としては、コンピューターではなくって、単なる道具としてそれを扱いたいんだっていうような理想があったはずにも拘わらず、じゃあ商品としてハードキーを選択するっていうのは、それを例えば全世界展開するっていうのだったら、全部ハードキーを取り替えないといけないとか、そういうことがあるので、やっぱり無理だということになるんだと思います。  で、私が最初にこの仕事をやっていた時は、ATMがまだハードキーを「残すのか残さないのか」問題っていうのがずいぶんあって、今はやっぱり残そうっていう方向になっているんです。それは、当然のことながら、ハードキーを残すとやっぱり機械の保守の問題とかも出てくるんですけれども、それは当然のことだと思います。ユーザーのことを考えれば、当然残すべき、必要なものだと思うんですけれども、残念ながら、なぜかスマートフォンは、なりませんね。携帯電話を残そうという意見がそれほど積極的に現れないっていうのは、私からするとちょっとメーカーの怠慢というふうに思えることもあります。出したら絶対売れるのに、私だったら買いますよって、いつも思います。  これはやっぱり何て言うんですかね、一つはものづくりの考え方っていうのに関して、先ほどちょっと私、実は植田先生の発表を聞きながら、東京高等工芸学校の話をちょっと思い出していたんですけども、東京高等工芸の「工芸」っていうのは、工業技術なんだと。東京高等工芸というのは、やはりある種の理念があって作られたところで、それがやっぱりすごく大事だとは思うんです。ただ、やっぱり関西っていうのは、松下幸之助がものづくりというのは市場に学べと。お客さんの言うこと聞けっていうふうに言っていたにも拘わらず、今そういうことを考える経営者であるとか、企業さんというのは減っているように思います。
  • **井口:**皆さんイノベーションも好きだし、私もそうですが、新しいもの好きだし、一番売れているよって言うと、皆さんそれに飛びつくっていうのはわかるんですが、植田先生のお話のところでもあったように、都市と地方の問題、あるいは国によって違う文化を覚えている、歴史を持っている、文明が違うという中で、現代のこの社会がユーザー、ユーザーというよりも人々がですね、人間が非常に一元化されて見られていると。市場の原理によってユーザーはみんな同じものを目指しているに違いないと思って、デザイナーたちは、あるいは企業は物を作っているように思えるんですよ。だから、それが先ほど言った携帯電話のボタンがなくなっているっていう問題になる、というふうに感じています。
  • **石川:**今の井口先生のお話は、とても道具という観点からとても大事で、おばあちゃんにとって携帯ガラケーは道具なんです。まさに自分の一部みたいな。だけど、スマホはもう道具じゃないです。全然使えない。そういう、やっぱり自分にとって、あくまでも人にとって、それが、何て言うんでしょう、心地よいかとか、豊かなのかという観点で考えるのが道具だと思います。一応そういう観点でいくと、ガラケーが復活するんじゃないかという希望も私は持ちましたけどね。だってそれを使っていたら楽しいわけです。気持ちいいわけですよね。私もどちらかというとボタンがあった方が押した感覚が確かにあります。ですので、もしかしたらスマホの次にまたボタン付きのものが次に出てくる可能性もあるかもしれません。道具っていう観点で考えるとそうなります。
  • **面矢:**小林さん。これまでの議論に何か付け加えてください。
  • **小林:**今の井口先生の質問ですけれども、デンマーク・デザイン・センターが「デザイン倫理のコンパス」っていうのを発表しまして。で、その中では、倫理を再建するんですけれども、例えばある仕組みを作った時に、その仕組みを作って失業する人がいるとかいないとか、それから逆に使いにくくなった人がいるとかいないとかっていうことも、評価のポイントになっています。だから、井口先生が今言われた問題というのは特別な問題ではなくて、多分、ここでもパネリストの方が言っているように、多くの人が抱えている問題のような気がします。